[原稿]『私達の母 聖マリア 』福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父の言葉とともに 中山真里

2020年5月24日

先週Youtubeにupしました中山さんの講話『私達の母 聖マリア 』ですが、引用箇所がはっきりしない所がある、とのエコーがありましたので、その原稿をこちらにupします。
ここで引用したマリー=ユジェーヌ神父の言葉が載っている本”En Marche vers Dieuは、残念ながらまだ邦訳されていないのですが(すみません。。。)
伊従さんが『カルメル誌』に毎号 『キリストに伴われて季節を巡る 』というタイトルで、マリー=ユジェーヌ神父のミサの説教を典礼暦に合わせて掲載しています。
マリー=ユジェーヌ神父の言葉をもっとお読みになりたい方はそちらもどうぞ。


カルメル誌バックナンバーおよび目次(男子跣足カルメル修道会公式HPより)
http://www.carmel-monastery.jp/700magaz.html

闇に輝く方、マリア

-幼きイエスのマリー・ユジェーンヌ神父による聖母の黙想
文:中山 真里

今日は、わたしたちの会の創立者、福者幼きイエスのマリー・ユジェーンヌ神父の、マリアさまについての言葉をご紹介します。師は1894年にフランスで生まれ、1967年に亡くなるまでカルメル会士として教会のために働きました。そのひとつとして幼きイエスの聖テレーズの霊性の価値をいち早く見出し、それを広く伝えていったということがあげられるでしょう。師はまた聖母マリアにも深い愛をいだき、表面的な信心にとどまらない聖母の深みへの理解をわたしたちに残してくれました。

5月は聖母の月でもあるので、聖母へのマリー・ユジェーンヌ神父の洞察のなかから、いくつかを取り上げご紹介したいと思います。まずわたしの好きな言葉をご紹介させてください。この言葉はわたしが聖母に近づくためにとても助けになり、今もまたこのような不安定な毎日を過ごすための大きな支えです。

漆黒の闇に輝く星であるマリアは、夜の闇の中で目覚めておられます。マリアの優しさは自分の子どもが極度の不安と悲嘆のなかにいるときこそ発揮されるのです。En Marche vers Dieu p91)

「漆黒の闇の中でもマリアは目覚めておられる」というのはとても慰めです。もちろん、この闇夜とは、昼と夜という時間で表される夜ではなく、人間のあらゆる闇のことを指しています。マリアはその中で目覚め、わたしたちを見守っておられます。そのことが「星」という言葉で表されています。

わたしたちの心が不安で押しつぶされそうになったとき、暗い夜の空に小さく輝く星をながめると心の不安が一瞬ふとはれるように、マリアの存在は不思議な輝きでわたしたちを慰めてくれます。同じような意味のもうひとつの言葉です。

子どもが成長して親の手を離れたとき、母は姿を消します。それは当たり前です。母が再び姿を現すのは、成人した子どもが、自分の過失からか、あるいは思いがけぬ出来事からか、じぶんのもろさに直面したときです。そのとき、母は苦しみのなかにいるこの子に、母としての心を取り戻します。聖母は超自然的な世界(神の世界)での母です。しかし聖母の特権、強さ、優しさ、思いやりは、自然界の母と何ら変わることはありません。(同上 p90)

先にご紹介した言葉と同様、ここでも気づくのは、聖母はいつもは隠れておられるということです。確かに 福音書でもマリアについて書かれた箇所はそれほど多くはありません。たとえばヨハネ福音書でマリアが現れ るのは、2章の「カナの婚礼」の場面、そして受難の場面の19章です。しかしこの二つの場面でマリアは非常 に重要な役目を担っておられます。隠れてはいるけれど、イエスとわたしたちを繋ぐ決定的な役目をされてい ます。

 そしてマリー・ユジェーンヌ師の言葉でもうひとつ気づくことがあります。「母が、つまりマリアが、再び姿 を現すのは、成人した子どもが、自分の過失からか、あるいは思いがけぬ出来事からか、じぶんのもろさに直 面したときです。」という箇所です。マリアにとって、わたしたちの苦しみや悲嘆の原因が何であれ、問題とな るのは、わたしたちが「苦しみのなかにある」というそのことです。心の内面の苦しみ、あるいは外からの出 来事によってもたらされる苦しみは、もしかするとわたしの罪が原因かもしれません。あるいは欲望に負けて しまった結果かもしれません。

いずれにしろ苦しみの中でマリアのもとに身を寄せるなら、マリアはその原因 が何であれ、ご自分の腕のなかに抱き取ってくださることでしょう。ルカ福音書に描かれた放蕩息子の父親の 姿が御父の心であるなら、その心を具体的にわたしたちのところに運んでくださるのが、マリアだと言える のではないでしょうか。マリー・ユジェーンヌ師はそれを次のような言葉で表しています。

母こそ、神のいつくしみを現すのにふさわしい。母というものは、子どもの弱さのためにあるのだから。 (同上 p90)

 神は愛であると同時に正義です。わたしたちは「正義」と聞くと、何か容赦ない裁判のイメージを抱いてしまい、身がすくみます。自分の罪や欠点を裁かれるのではないかと思うのです。しかし、フランシスコ教皇が語っておられるように

神が望んでおられるのは、わたしたちを糾弾することではなく、わたしたちの救いです(『いつくしみ-教皇講話集』42p)

ですから、「神のいつくしみの境界のない地平へとわたしたちを解き放つために、わたしたちがもつ正義のちっぽけな概念のはるか先を行く御父のみ心」へと至りましょう。そのいつくしみの業はマリアにこそふさわしいとユジェーンヌ神父は語ります。
このようにマリアが母、しかもわたしたちの母であるのは、ご自分の子どもイエスと共に歩み、イエスの受難の際にはその苦しみを共に担われたからです。

聖母は御子の受難を共に分かち合われましたが、その苦しみはわたしたちの苦しみがそうであるように内的なものでしょう。それがゲッセマネです。その苦しみによってこそ、聖母は人々を生み出されます。(同上 p82)

ここには苦しみの神秘があります。苦しみの神秘ということをあまり軽々しく口にすべきではないと思います が、いずれにしても、マリアは最も深くそして豊かにそれを生きられたことは確かです。苦しみの神秘は十字 架の神秘、そして復活の神秘です。人間は希望のないところでは窒息してしまいます。

キリストの十字架は復 活をそのうちに宿しているからこそ希望なのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、『苦しみのキリスト教的意味』の なかで次のように述べておられます。

苦しみは人の弱さであり、自己をむなしくさせることでありながらも、神はその力をまさに弱さと自己をむ なしくさせることの中で、知らせようとされました。(『苦しみのキリスト教的意味』 p86)

苦しみの中に働く神の力はいのちです。マリアはキリス トの十字架を共に担い、わが子が苦しみ息たえていくのを目前にするという苦しみの深淵のなかにあって、神 のいのちに希望しておられたことでしょう。そのいのちから新しい人々が生み出されていきます。 ところでマリアとはどのような方なのでしょう。ユジェーンヌ神父は次のように語ります。

聖母は、神という無限の大海原に向かって力強く流れこむ大河です。聖母は激しい急流のように神に向かっておられます。しかしその水面にはさざ波ひとつありません。悠然と穏やかに流れる、純粋な流れです。聖母はこのように神に向かっている方です。(同上 p80)

美しい表現ですね。マリアは常に神に向かっている方、まっすぐに神に向かって流れこんでいる方です。幼い子 どもが常に母親を求め、そのもとに駆け寄るように、マリアは神を求め、神に向かっておられます。マリアは「神 の子」なのです。母であると同時に「神の子」なのです。そして、「水面にはさざ波ひとつありません」と師は語 ります。すべては穏やかで平和です。

イエスとヨゼフと共に暮らされたナザレとの生活で村の人々はマリアに何 も特別なことを見出さなかったことでしょう。しかしマリアは「純粋」でした。教会が宣言するように、無原罪 のマリアはわたしたちのように罪によって神からそれることはありません。罪と言う言葉は「的をはずれる」 という意味だそうですが、マリアは神という的からはずれることはないのです。

しかしマリアは無原罪だとは言っても、わたしたちとかけ離れた方ではありません。むしろ反対に彼女こそも っとも人間的な方なのです。

聖母は、わたしたちが人間的である以上に、人間的でした。わたしたちよりもっと感じやすく、そのためものごとをもっと深く感じとられました。苦しむときには、わたしたち以上に苦しまれました。聖母はまたあらゆる母親より母でした。母そのものでした。(同上 p88)

「人間的」という言葉に注意したいと思います。ふつう、「人間的」というとき、それは人間のもつ、おろかさや、 悲しさ、欲望のどうしようもなさ、など常に神からそれてしまう弱さを指すことが多いですが、ここで言う「人 間的」とはキリストによって贖われた新しい人としてのありようだといえるでしょう。

キリストによって新しい 人間に変えられた人は超然として無感覚、無感動な者となるのではありません。むしろ様々な足かせから解き放 たれた感受性は、さらに深く物事を感じとるのだと思います。 そしてそのような方だからこそ、マリアは神をわたしたちに身近な存在として示してくださるのです。

イエスはこの世に来られたとき、聖母の美しさをその額、その透明なまなざしのうちに宿しておられました。(同上 p81)

マリアはわたしたちの十字架を取り除くことはされなくても、その厳しさを和らげてくださる、というのがある聖人のマリアへの言葉です。マリアの優しさは十字架さえ包み込むのです。そのマリアにわたしたちのすべてを委ねましょうと神父はわたしたちに勧めます。

わたしたちは、マリアの大きな母の愛に包まれていると感じなくてはなりません。わたしたちの心と体をすべてマリアにゆだねましょう。マリアはわたしたちが必要とするものなら、そのなかで区別はなさいません。霊的な母性はすべてを包み込みます。わたしたちがどのような状況にいようと、マリアの愛にすべてを託しましょう。この神の母の本当の子どもでいましょう。神はマリアを通ってわたしたちのところに来られます。(同上 p89)

最後に、マリー・ユジェーンヌと共にマリアへの祈りをご一緒に唱えましょう。

聖母よ あなたに願います
愛といのちの母であるばかりでなく
あわれみの母でいてください
惨めさのうえに注がれる「いのち」の母
その惨めさをいやし、いのちを与え、復活させる「いのち」の母として
マリアよ あなたに願います
どうか耳をかたむけてください
あなたはわたしたちの母 わたしたちはあなたの子ども
この願いをどうぞ聞き入れてください
(聖霊を友にp42)