イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために
~幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父と共に~
講師 エマヌエル・ヒルシャワー神父(ノートルダム・ド・ヴィ司祭)
復活の朝に キリストとマリアの出会い
今日、私たちの祈りによって、今日この復活の日に、主が私たちのうちに命を広げていってくださることを願いましょう、その命が私たちの愛する全ての人びとのうちに、教会全体に広がっていくように・・・。福音書ではその後、主がどのように弟子たちに現れたかが書かれています。福音書には書かれてはいませんが、キリストが母であるマリアに出現されたということは、マリー・エウジェンヌ師にとっては、当然なことでした。教会の歴史の中で沢山の聖人たちがそのように考えてきました。特に復活祭の次の日、復活祭の月曜日に、師は、キリストがマリアに会われる場面を黙想しました。キリストが特別に母マリアのもとに来られ、母を慰める日なのです。復活の輝く光の中でご自分を母に示すために・・・。
師はやや大胆にこのように語ります。
『復活の日の聖母に目を注ぎましょう。主がみ母マリアにお現れになったことは、確かだと思います。復活されたおん子は、み母がご自分の喜びと勝利にあずかることを望まれたはずだからです。』
この場面を愛する人の全てを知りたいと望みつつ、よく眺め、黙想しました。
『今日、しばらくの間、この復活の月曜日に、聖母マリアの喜びに目を注ぎましょう。私たちの母であるマリアがどのようにこの日を過ごされたのか、何を心の中で思い巡らしておられたのか知りたいからです。』
マリアの心の内に何があったのでしょうか?それは喜びでした、溢れんばかりの喜びでした。復活の月曜日の説教の中で師はこう語ります。
『今日、イエスは復活しみ母に現れました。なんという喜び!お告げのときの天使の言葉は本当でした。マリアが世に与えたおん子は確かに、神の子、救い主でした。人々の手にかかって殺されたのはおん子自ら苦しみと死を味わわなければならなかったからでした。』この喜びの祝いは聖霊の祭りとも言えます。これは既に天上の喜びの一端です。そしてこのように語ります。
『これがマリアの喜び、聖霊はマリアのうちで祝宴を開きました。ただ外目にはまったき静けさのうちに。すでに天上のもののような清らかさと美しさの中で。』
教会の母、マリア
このマリアの喜びは教会全体の喜びでもあります。なぜならマリアは私たちの母であり、私たちはマリアに向かってお母さんと呼びます。彼女の喜びは私たちの未来でもあります。なぜなら、私たちもいつかその喜びを味わうことができるからです。この地上は、闇の中、暗闇の中でしょう、でも私たちはその喜びに向かって歩んでいるのです。その喜びは私たちの望み全てを満たしてくれるのです。そしてその喜びは私たちの期待の全てを越えるものです。ですからマリアに私たちの聖週間の歩み、復活祭へ向かう歩みをゆだねましょう。それは信仰と希望と愛のうちの歩みです。ここで紹介したマリー・エウジェンヌ師と教会の中の全ての聖人たちとともにイエスに従って歩みましょう。私たちの歩みはつつましく、貧しいものかもしれません。私という貧しい小さな罪人のためにこそ、イエスはこの世に来られたのです。そしてある日、私たちも使徒パウロのように、このように言うことができるのではないでしょうか。パウロと全ての聖人たちと共に。
「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。この肉体における私の命を、私は神の御子キリストへの信仰のうちに生きている。キリストは私を愛し、私のためにご自分を捧げてくださったのだ。」
<終わり>
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イエス・キリストと聖週間を「生きる」ために(1)