二人の聖テレジア ーイエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ(1) 

2014年12月10日

二人の聖テレジア ーイエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ(1)

 伊従信子

アヴィラの聖テレサ生誕500年祭(2015年)に向けて、2014年度カルメル誌で 掲載された記事を数回にわけてお届けいたします。

教会での公式名は二人ともテレジアですが、誌上ではスペイン語読みでテレサとフランス語読みでテレーズとします。ただしテレサとテレーズを一緒に呼ぶときは「二人のテレジア」とすることを、まずはじめにお断りしておきます。

 

1 二人の聖テレジアの素描

 

イエスの聖テレサ

スペインの聖テレサ、本名「テレサ・アウマダ」、修道名「イエスのテレサ」は、「アヴィラの聖テレサ」、「大聖テレサ」とも呼ばれています。強固な城壁に囲まれたアヴィラに生まれ、21歳の時テレサはカルメル会ご託身修道院に入会しました。その後厳格な原始会則に戻った改革カルメル会聖ヨゼフ修道院を創立し、亡くなるまでには17の改革修道院を創立しました。長上の命令のもとに神への一致に至る道程を自らの体験にもとづいて解説した著作を残しています。1582年10月4日に聖性の香り高くアルバ・デ・トルメスの改革カルメル会修道院で帰天しました。その後、1614年に列福、1622年に列聖されました。

1970年9月当時の教皇パウロ六世は、聖テレサに女性として最初の「教会博士」を授与をしました。バチカンの聖ペトロ大聖堂には諸修道会の創立者の巨大な像が立ち並んでいます。その聖堂入り口におかれている聖テレサの像の足もとには「霊的な人々の母」と記されています。

 

幼きイエスの聖テレーズ

一方リジューの幼きイエスの聖テレーズは本名を「テレーズ・マルタン」、修道名「幼きイエスと尊い面影のテレーズ」で、その他イエスのテレサを大聖テレサというのに対して「小聖テレーズ」、「小さい花」、とくにフラン語圏では「小さい聖人」などとも呼ばれて親しまれています。

テレーズはノルマンディー地方リジューのカルメル会修道院に、特別な入会許可を得て15歳で入会しました。そこにはすでに姉ポリーヌと長姉マリーが入会していました。父マルタン氏が亡くなると4歳上の姉セリーヌも入会してきました。テレーズはひたすら神にすべてを捧げ、日々の生活の小さなことも幼な子の信頼をもって父である神に委ねて、テレサの改革カルメル会修道院の生活を生きていました。24歳で結核におかされ亡くなるまで修道院の中でさえ目立つことのない隠れた存在でした。それにもかかわらず、テレーズが広く知られるようになったのは、従順によって書き留めた「思い出」によって「幼な子の道」が知られるようになったからです。リジューの修道院がテレーズの死後フランスの他のカルメル会修道院への回状として送付したのをきっかけに多くの読者を得、その要望により一年後に『ある霊魂の物語』として出版の運びとなったのです。

このようにして、帰天してまもなくテレーズの取次の働きはすでに広く知られるようになりました。当時テレーズの肖像をもってきた一司教に、教皇聖ピオ十世は「現代の最も偉大な聖人」と言われたということです。生前テレーズは自分の使命について「わたしが愛したように人々に神さまを愛させたい」と言っていました。テレーズの死後の活躍は確かに驚異的といってよいでしょう。

当時、通常すくなくとも50年を要した列福・列聖調査は教会の法的免除により短縮されました。教皇ピオ十一世は1923年4月29日テレーズを列福し、三年後1925年5月17日に列聖しました。

1927年教皇ピオ十一世はテレーズを全世界に散在する「宣教者の保護の聖人」と宣言されました。十五歳で観想修道院に入会し、九年間修道院の囲いから一歩も出ることなく二十四歳という若さで帰天した修道女が、日本にキリスト教をもたらし、東洋の偉大な宣教者といわれている聖フランシスコ・ザビエルと同格で、全世界の宣教者たちの保護の聖人となったのです。

テレーズ帰天百周年1997年、教皇ヨハネ・パウロ二世は幼きイエスの聖テレーズを教会博士と宣言されました。こうして三十三人目の教会博士、三人目の女性教会博士が誕生しました。こうしてテレーズは、没後たちまちにして十九世紀末から二十一世紀の現代人たちを父である神への渇きへ巻き込むことになりました。

テレーズと十六世紀のカルメル会改革者聖母テレサとの間には四百年の時間の隔たりがあります。異なる時代背景、文化、気質、体験を超えてテレーズは改革者聖テレサからどのような影響を受けて、「現代の人びとへの神のことば」(教皇ピオ十一世)と呼ばれるようになったのでしょうか。

まず、テレサの改革カルメル会修道院創立のアヴィラからリジュへの道のりをたどってみることにしましょう。(続く)