例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』
昨年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。
そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。
現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
神の現存
テレサの教えが現代人のわたしたちに訴えかける点は、それがすべて彼女の体験に基づいていることです。彼女の教えには、いわゆる抽象的な概念をもてあそぶような机上の空論は一つもありません。現代人はもうイデオロギーを信じておらず、単なる理論にも心動かされません。当時の最高の知性とも言える哲学者フッサールの愛弟子、エディット・シュタインの心を揺り動かしたのは、テレサの体験の集大成である自叙伝でした。それを読み終わった時、エディットは「これは真実です」とつぶやいたのです。
「突然、神の現存がわたしに迫ってきて、神がわたしのうちにおいでになる。またわたしが神のうちに完全に沈められていることをまったく疑うことができませんでした。」(自叙伝10章−1)
「神はわたしのうちにおられる」という現存の体験。これがテレサの原体験です。
この現存は祈りの根本です。祈りが神との対話であるなら、いない方、存在しない方と対話することはできないからです。
テレサのこの神の現存の体験は、カルメルの源泉と言われる預言者エリアの叫びにつらなっています。イスラエルの民が唯一の神を捨て、偶像崇拝に走った時代に一人エリアは沙漠から立ち出でこう叫びました。
「主は生きておられる。その御前に私は立つ。」
このように神の現存を大切にする姿勢は、もちろん決してカルメル会に固有のものではありません。いうならば、聖書は初めから終わりまで、この神の現存について語っています。
聖書における神の現存
聖書の中で、初めて神がこの現存について自ら語る有名な箇所は、出エジプト記の神がモーセに燃える柴の中から直接語りかける場面です。羊の群れを飼っていたモーセは、燃え上がっているのに燃え尽きない不思議な柴を見つけ近寄ります。すると神は柴の中からモーセを呼び、自らが彼の神であることを告げるのです。そこでモーセは神にその名を問います。すると神は、自らを「わたしは『ある』ものである」(出エジプト記 3:14)と告げます。
ここで注目したいのは、この直前の神の言葉「わたしは必ずお前とともにいる。」(3:12)です。「ある」と「いる」は存在をあらわす同じ「be動詞」ですが、そのニュアンスの違いは日本語で明らかです。まず「ある」は普通、ものについて使われ、「いる」は人について使われます。
雷がなって怖がっているこどもに親は「大丈夫だよ、パパはあるから」とはいいません。「大丈夫だよ、パパがいるから」と言うはずです。この場合の「いる」は、たとえばここに「テーブルがある」というような客観的な事実を伝えているだけではありません。ここでの「いる」というのは、誰かのための存在であることを意味しています。
この「いるパパ」は、雷がなったら、子どもを抱きしめ、守ってくれる存在として「いる」のです。「いる」というのは、関係と絆の言葉です。
共にいてくださる神は、人間を創造し、親のように見守り、絆を持ち続ける神です。モーセの後も、旧約聖書の中の預言者達へ絶え間なく与えられた神のメッセージは、「おそれるな、私は共にいる」という言葉でした。それは共におられる神インマヌエルであるイエスを通して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という根本的励ましにつながってゆきます。
神が愛であるというのは、抽象的な概念ではありません。それは、旧約の時代からの体験に基づく聖書的な確信です。この愛は、いつも共にいてくださる方です。放蕩息子のもとに走りより、胸にだきしめる、母のような心をもった父の姿こそ、この愛をもっとも良く伝えてくれています。
ともにいてくだる神は、わたしたちの内に住んでおられる神(ヨハネ14:23)でもあります。
テレサの神の現存の体験は、福音書でヨハネが語ることそのものであり、それ自体はなんら驚くべきことではない、福音そのものなのです。
(つづく)