5月から8回にわたり、片山はるひ (ノートルダム・ド・ヴィ会員)による
「暗夜」を照らす炎 - 十字架の聖ヨハネ、 リジューの聖テレーズ、マザー・テレサ-
を連載しています。なお、この講話は『危機と霊性』
(日本キリスト教団出版局、2011年)に収録されているものです。
第4回目の今日は 十字架の聖ヨハネ 『愛による浄化』 をお送りします。
「霊の暗夜」に入った人は、神に対して大いなる愛を抱いている人です。だが、それゆえにこそ、苦悩は深まります。
「霊魂は、この浄化の中にあって、自分が神に対して大いなる愛を抱き、神のためなら千のいのちでも捧げようとしていることを知っているのであるが、それにもかかわらず、これは、彼らの苦しみを軽減するものではなく、かえって、より大きな苦しみのもととなる。なぜなら(…)霊魂が神を愛することは非常なもので、神以外のことは、念頭にないくらいなのであるが、自分がこんなにも惨めなのを見て、神が自分を愛しておられるなどとは信じられないし、また、愛されるだけの理由があるとも、将来そうなるとも、考えられないからである。かえって、神からだけでなく、すべての被造物からも、永久に憎まれる理由があると考え、自分がこんなにも愛し望んでおられる方から捨てられるにふさわしい理由が自分の中にあるのを見て、深く悲しむ。」12
このような浄化のメカニズムを、十字架の聖ヨハネは、二つの印象的な比喩を用いてわかりやすく解説しています。その一つは、太陽と目のたとえです。
「霊魂は、神に近づけば近づくほど ますます闇の暗さを感じ、自分の弱さの故に、ますます深い闇を感じる。それはちょうど、ある人が太陽に近づけば近づくほど、その人の目の弱さと不純さの故に、太陽の偉大な輝きが、その人にますます深い闇と苦痛とを引き起こすのに似ている。これと同じように、神の霊的光は、非常に壮大であり、人間の自然的理性をはるかに超えるものであるため、それに近づけば近づくほど、その人を盲目にし、暗くする。」13
ここで、神は太陽にたとえられています。そして、目はわれわれの理性であり、理性に接ぎ木された信仰です。真夏の太陽を裸眼で直視することは決してできないように、わたしたちの理性では、神をとらえることはできません。神はわれわれの有限の知性を遙かに超えた存在だからです。とすると、信仰をもって神に近づけば近づくほど、近くなっているにも関わらず、目には闇しか感じられなくなります。これが、この浄化のメカニズムです。神に近づいているにもかかわらず、理性には、その逆の印象しか感じられないというパラドックスが起こるわけです。
もう一つは、火と薪のたとえです。
ここで、火は神であり、薪は人間です。
「神的な光は、霊魂を自分と完全に一致させるために、霊魂を浄め、整えながら、ちょうど火が薪を自分に変化させようとして薪に働きかけるのと同じやり方で霊魂に働きかける。(…) 物質的な火が、薪に働きかけて まず第一に始めることは、それを乾燥させることであり、湿気を外に追い出し、薪が含んでいる水分を絞り出してしまうことである。それからまもなく薪をこがし、真っ黒にし、醜くし、悪臭を放つことさえさせる。そして、(…)暗く醜い偶有性のものをすべて引き出し、追い払う。そして遂には、外側からそれを燃え立たせはじめ、熱くして、それを自分に変化させ、火のもののように非常に美しくする。」14
こうして観想の愛の神的火は、
「霊魂を変容し、自分と一致させる前に、まず、自分と反対の偶有性のものすべてから霊魂を浄める。霊魂の醜いものを外に出し、霊魂を真っ黒にし、暗くするので、霊魂は、以前よりも悪くなり、今までよりももっと醜く、嫌悪すべきものになったと思われる。(…)今まで見えなかったものが、自分自身の中に見えるので、自分は神に見られるに値しないばかりでなく、かえって、嫌われるのが当然であると思われ、また、現に憎まれているのだと考える。」15
以上が、十字架の聖ヨハネによる「霊の暗夜」の描写と意味ですが、この本質を理解した上で、次のリジューの聖テレーズ、及びマザーテレサの著作や手記を読めば、自ずと二人の聖女の経験したものが、まさしくこの「霊の暗夜」に他ならないことが明らかになると思います。
(つづく)
文:片山はるひ
次回掲載は9月中旬の予定です。
注:
12.十字架の聖ヨハネ『暗夜』ドン・ボスコ社、1987年(2010年第4刷) p.167.
13.同書、p.238.
14.同書、p.188.189
15.同書、p.189.
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