待降節は大いなる希望のとき、 マリアとともに「待つ時」です。
聖母が神でありながら人間となられたみことばの姿をわたしたちに示してくださいますように。聖母は 神を所有し、神と生き、みことばを世に与え、みことばに触れ、
その腕に抱いた方、マリア。
みことばは聖母にとってひとつの偉大な現実でした。
みことばは聖母の子供だったのですから。
イエスの誕生を数週間後にひかえたマリアがいだいておられたと同じ希望を、
待降節を 生きるわたしたちに 与えてくださるよう願いましょう。
マリアの希望が わたしたちにとって待降節の希望となりますように。
そして希望のうちに待つことが日々の生活の中で、
まことに具体化され、生き生きとした深いものとなりますように。
わたしたちの心と、体さえも完全にとらえてしまいますように。
マリアにおいてそうであったように、マリアこそこのような希望に生きておられましたから。
こうして待降節はわたしたちにとり、真の希望の時、それゆえに恵みの時となることでしょう。
福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父の説教より
編訳:伊従 信子
ノートルダム・ド・ヴィ