待降節は大いなる希望のとき、「待つ時」です。
わたしたちがいつの日か神のもとへ帰り、聖三位の交わりに参与し、時間を超えた神の永遠の中に入っていくことを希望しつつ「待つ時」。
待つこと、希望しつつ待つことは 神の呼びかけへの応えです。
神が創造されたもののうちに、そして洗礼の恵みに記されたわたしたちへの呼びかけへの応え、またわたしたちが日々より完全なものになるようにとの神の招きへの応えなのです。
わたしたちが全く神の国のものとなるのは、わたしたちの目がこの霊的な現実へと開かれて、時間を超えた永遠へといつか入る時であり、これこそが、わたしたちの大いなる希望なのです。
待降節は他ならぬこの希望へとわたしたちの目をむける時です。
神が望まれるただ一つのことは、人間が神の命へ参与することです。そして神の国とはわたしたちがいつかあずかる聖三位のいのち以外の何ものでもありません。
伊従 信子
ノートルダム・ド・ヴィ