十字架の聖ヨハネの祝日を記念して、今回は2017年12月に掲載しました伊従さん執筆の記事をご紹介します。
イエスの誕生の神秘は十字架の聖ヨハネが教える「無」の教えをなんとよく示しているのでしょうか。
おん父は沈黙と単純さのうちに みことば を発せられました。
この地上においても同じことです。同じような環境、すなわち剥奪、貧しさ、闇、沈黙などすべての欠如において神は みことば を余すところなく輝き出させます。
みことば が来られるのは謙遜においてです。人間のうちに受け入れられるには人間性を必要とされました。しかし、それは剥奪された人間性でした。身体をおく場所が地上に必要だったのです。ほんの少しの場所、飼い葉おけ と少しばかりの わら でした。
この地上において みことば を生み出すのに必要なのはそれだけです。これこそが すべて の神的なものを生み出す法であり、わたしたちのうちにキリストが来ていただくのにも同じことです。
みことばの誕生にあたって、この確認を得たことは、十字架のヨハネにとって何という喜びだったことでしょう。すでに彼の生き生きとした体験、そしてカルメル山登攀の教えの生き生きとした具体的な真実の確認でした。これこそがベツレヘムなのです。
福者幼きイエスのマリー=ユジェーヌ神父 1948年12月24日の説教より
(『十字架の聖ヨハネの ひかりの道をゆく』 伊従信子[編・訳]からの抜粋)