〝聖なるもの″になるように 呼ばれています
神への歩みに
わたしたちの惨めさは
邪魔になりません。
わたしたちのうちに刻まれた傷さえ
神の光りのうちに
光の源となりうるのです。
ひとたび歩みはじめた神への道程では行けばゆくほど自分の貧しさ、惨めさ、弱さを感じるようになります。
もう断念した方がよいのではないだろうか。しょせん、わたしには無理だ・・・
そういう思いにかられた時の自分の惨めさの体験こそ 貴重なのです。
「自分の弱さ、小ささの中で神に信頼するとき弱さから受ける傷は光の源となる」
と福者マリー = ユジェ-ヌ神父は言います。
神の慈しみの愛を輝き出すことができるのです。
弱さ、惨めさに閉じこもらないで神の光りに自分をさらすことです。*
11月諸聖人の祝日、死者の記念日 王であるキリストの祝日…そして待降節がはじまります!
伊従 信子(いより のぶこ)
ノートルダム・ド・ヴィ
* 『いのちの道』写真・文 伊従信子、サンパウロ