聖テレーズの両親 聖ルイ・マルタンと聖ゼリー・マルタン(5)

2016年1月8日

10月18日にバチカンにおいて教皇フランシスコにより、幼きイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)の両親が列聖されました。日本では余り知られていない、この2人の生き方と聖性を6回に分けてご紹介しています。今回はその5回目です。
執筆者はノートルダム・ド・ヴィ会員 中山真里さんです。

 

聖テレーズの両親 聖ルイ・マルタンと聖ゼリー・マルタン(5)

聖テレーズの両親

 

 

 

 

 

 

ルイとゼリーの受難(2)

比類ない母であり妻であったゼリーを失った家族は、それでも徐々に均衡をとりもどしていきました。レオニーとセリーヌは長女のマリーを第2の「ママ」として選び、テレーズはポリーヌをママとして選びました。ゼリーの願いどおりマリーが一家をきりもりし、ルイは一家の柱として娘たちの養育にあたりながら大好きな巡礼を再開しました。

ゼリー亡き後、一家はしばらくこのような平穏な時を過ごしましたが、1882年にポリーヌがカルメル会に入会したのが家族の離散の始まりでした。マリーが続いてカルメル会に入会し、レオニーもまた突如クララ会に入りました。その入会は長くは続きませんでしたが、今後は末娘テレーズがカルメル会への入会の望みを父親に打ち明けました。1887年の聖霊降臨の祝日でした。

このころからルイの健康に陰りが見え始めます。最初の兆候が現れたのは1887年5月のこと。左脚の麻痺と言葉のもつれ、記憶障害、放心状態、もの忘れなど、以前のルイでは考えられないような言動が始まりました。そのうちに、セリーヌもまた修道者なる望みを打ち明け、それからがドラマの始まりでした。ルイは1888年に失踪し、その後、小康を経てテレーズの着衣式には出席できたのですが、その1か月後にはピストルを持ち出して、幻覚に現れた敵から娘たちを守ろうとしました。

義弟のイシドルはルイをカンの病院に入院させる決意をし、同年、ルイに財産放棄の署名をさせました。家の賃貸契約も解除して家具は売り払われ、マルタン家は名実ともに離散家族となりました。財産管理の放棄に署名をする際、ルイは「こどもたちがわたしを見捨て、もう信頼していないのだ」とむせび泣いたのです。

ルイはカンの病院に3年3か月入院していました。病状は、落ち着いた穏やかなときと、動揺して興奮するときを繰り返していましたが、概してその生活態度は模範的で、修道女たちの尊敬をあつめていました。彼女たちは敬意をもってルイを看護したのです。そしてルイは、意識の明瞭なときには、自分の置かれている状況に苦しんだとはいえ、不満を口にすることはありませんでした。

その後、ルイの病状は悪化し、歩行困難となって逃走する心配がなくなったため、退院することとなりました。娘たちにとってどれほどの喜びだったことでしょう。しかし、イシドルに連れられてカルメル会を訪れたルイが、3年越しの面会で言った言葉は、「天国で」というたった一言でした。格子の向こうにいた娘たちは、その後再び父の姿を見ることはありませんでした。

ルイの最期を世話したのは、まだカルメル会に入会していなかったセリーヌと一人の使用人でした。その後、何回かの発作に襲われた後、ルイ・マルタンは7月28日に病者の塗油を受け、翌日、セリーヌと義弟一家に見守られて帰天しました。71歳でした。

つづく
文:中山 真里