2014年9月28日(日)東京教区 関町教会において
ノートルダム・ド・ヴィ会員の 片山はるひ が
リジューの聖テレーズについての講話を行いました。
その講話を数回に分けてご紹介して行きます。
今回はその7回目です。
『闇』を貫く光 幼きイエスの聖テレジアの霊性
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ会員)
11.バラの雨
そして「バラの雨」です。
テレーズというと「十字架・バラ・花びら」というのがシンボルになっています。なので「ロマンチックな聖人なんですね」と言われることがあります。もちろん詩などを読むと本当にロマンチックなところはあります。ときどきそのロマンチックな言葉に嫌気がさす人がいます。亡くなった奥村一郎神父さまも、「テレーズっていうと宝塚って言われちゃうんだよ」と言われていましたが、どうかそこには止まらないでください。「ああ」とか「おお」とか出てくるのは当時の言葉づかいであって、実は骨太で、テレーズには非常に男性的なところがあります。神学者の中で非常に大物な方でもテレーズに心を鷲づかみにされていくほどです。ですからロマンチストなわけではない。ただ、そういうイメージがあります。
「バラの花びらを投げましょう」というのは何を言っていることなのか。
イエスへの祈りです。
主よ、あなたに私の愛を証しするために、私には、花びらを投げるよりほかに方法がありません。それはつまり、どんなに小さな犠牲も、ひとつのまなざし、一つの言葉も逃さずに、一番小さなことを皆利用して、それらを、愛によって行うことです。私は愛によって苦しみ、また楽しむことさえ愛によってしたいのです。私は歌いましょう。たとえ茨の中に花を摘まなければならないときでも。このか弱い何の値打ちもない花びらが、あなたを、教会を喜ばせることでしょう。(自叙伝 291~292頁)
このリアリティはロマンチックどころではありません。この犠牲、まなざし、言葉、どんな小さなことでも全部利用してそれを愛によって行う。こうなると、すごすぎる感じがします。
我々はそこまではいきませんが、彼女の発見はこれです。愛というのは量ではなく、質なのだと。どんな小さなことでも、そこに愛をこめてみんな利用すれば、それが花びらになって、――しかも彼女は大胆なことに――それは教会を喜ばせると言ったのです。実際にその後のことを見ますと、確かに教会中がテレーズのしたことを喜んでいますから、これは大言壮語ではないということと、花びらの意味をお伝えしたいと思いました。
つづく