二人の聖テレジア ーイエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ(3)
伊従信子
アヴィラの聖テレサ生誕500年祭(2015年)に向けて、2014年度カルメル誌で 掲載された記事を数回にわけてお届けいたします。
教会での公式名は二人ともテレジアですが、誌上ではスペイン語読みでテレサとフランス語読みでテレーズとします。ただしテレサとテレーズを一緒に呼ぶときは「二人のテレジア」とすることを、まずはじめにお断りしておきます。
二人の聖テレジア (3)
イエスの聖テレサ と 幼きイエスの聖テレーズ
伊従 信子 (いより のぶこ)
3 幼きイエスのテレーズとイエスの聖テレサとの関わり
前回(1、2人の聖テレジアの素描、2、アビラからリジューヘ)テレーズ・マルタンとイエスの聖テレサとの関わりをテレーズの『自叙伝』と列福、列聖調査での証言を通して、「テレーズの幼児期からカルメル修道会入会前までの時期」をみてきました。今回はカルメル会修道院入会後、「幼きイエスのテレ-ズ」(修道名)とイエスの聖テレサとの関わりを見てみたいとおもいます。
カルメル会修道院にて(1888年4月以降)
1888年4月9日その年は四旬節のために延期されたお告げの祝日がテレーズの入会の日として選ばれました。「聖なる箱船の戸はついにわたしの後ろに閉ざされました。…わたしの望みはついに実現されました。本当に深く快い平和を感じましたが、それはとても言葉に表せません。それから七年半このかた、この平和はいつもわたしの心の深みにあり、最も大きな試練のときにさえ、消え失せたことはありませんでした。・・・修院の中は何もかもみな気に入り、まるで砂漠に来たような気がしました。ことに小さな修室にはすっかり心を奪われてしまいました。といってもわたしのよろこびは穏やかで、小さい舟が進んでいく静かな水面にはさざ波を立てる微風さえありませんでした」(『自』193~194)。
このようにして15歳のテレーズは4世紀前に母聖テレサが改革したカルメル会の厳しい祈りの生活をはじめました。入会後のテレーズは改革者テレサとどのように出会っていくのでしょうか。幼きイエスのテレーズとなって、修道院での日々の生活の中で出会うことになる母テレサのご像、絵、言葉などをわたしたちも禁域の修道院内に入って(テレーズが生活していた当時の修道院の図面、写真資料に基づいて)見ていくことにしましょう。
* 母テレサのご像
まず、リジューのカルメル会修道院の正面にアビラの聖テレサのご像が見受けられます。そして修道院の中にさらに入ると、中庭を囲むようにある回廊の一角に天使に心臓を矢で貫かれている「聖テレサの刺し貫かれた心」のご像が置かれています。その場所はテレーズが最後の何か月間かを過ごすことになる病室の入り口横にあたりますから、最後のころ、マルタン氏が使っていた車椅子で回廊から聖体訪問をしたり(参照、『テレーズ写真集』)、回廊のテレーズの写真)、庭を一回りして(『自』原稿C)病室に戻るテレーズはどんな思いで母テレサのこの絵を眺めたことでしょう。
「聖堂の前室」と呼ばれる場所では、母テレサが楕円形の額の中で娘たちを見下ろしています。
聖堂に入る前に修道女たちが全員揃うのを沈黙のうちに待つ静粛なその場所に掲げられているテレサはテレーズの姉イエスのアニェスによる絵です。聖堂に入ると、霊感のうちにペンを手にするマドレ・テレサ(80センチほどの絵)が見受けられます。
休憩室には片手に羽ペンを、他の手には本をもつ母テレサ(70センチほど)の絵が娘たちを見つめています。毎日修道女たちは一,2回は出入りする場所であり、何かにつけて目につくところにその絵はかかげられてあります。
ノビスたちが集まる修練所にも1枚の絵があります。それほど大きくないこの部屋では、修練長の修練者たちへの毎日の話、また個人指導・面接などが行われ、マドレ・テレサがめにつきます。テレーズは修練者としてここで修練長や、ゴンザガのマリー院長と毎日会っていました。カルメリットたちが聖体拝領する格子から見ることができる主祭壇(外部聖堂)の右側にも母テレサの絵がかかげられています。でも、テレーズは果してどのぐらいこの母テレサを見たのでしょうか。
* 母テレサの言葉
リジューのカルメル会修道院の壁にはいくつかの母テレサの言葉が書かれています。
① 院長の修室の上には「聖テレサ」。
② 食堂にはテレサの言葉、「天の食卓に思いをはせなさい、そこでの食べ物は神ご自身」。
③ 「時計が時をうつのを聞くとき、神にまみえるときが近づき、この地上で過ごす時間が 1時間少なくなったことを思いよろこぶ。」
とテレーズの修室へ行く廊下の時計のそばには書かれています。テレーズが修練長補佐として修練院にとどまっていた時の修室(修道院入会後3度目の修室)で、病室に移るまで使っていた部屋です。病室に移る前、夜の祈り終了後自分の部屋に戻るのに30分かかったとテレーズは後日打ち明けています。1日に何回となく聞く時計の音、そしてそのそばに書かれた言葉は幼きイエスのテレーズの心にしみ込んでいたことでしょう。
④ 屋根裏の部屋に向かう階段には「すべては過ぎ去ります。」
1階から2階のテレーズの修室へ行くとき使う階段。1日何回となく目にしたに違いない言葉でしょう。病室に移るまでに余りの衰弱に30分かかってやっと部屋にたどり着いた」とのテレーズの言葉が想いおこされます。
⑤ 志願者テレーズの修室の壁には「苦しみか死を」と「主の慈しみをとこしえに歌う。」が書かれています。
* ご絵
当時志願者は入会すると自分の修室のために3枚のご絵を受け取りました。
① 戸をたたいているキリスト
② 幼子ともにいるマリア
③ 十字架の前にひざまづいているアビラの聖テレサのご絵
1890年9月8日初誓願にRerony神父(テレーズが入会前に父とセリーヌと一緒に参加したローマへの巡礼団に同行した司教顧問)からの1枚のご絵=アビラの聖テレサ、その白いマントには「苦しみか死を」と書かれています。
* テレーズの聖務日祷「教会の祈り」にはさまれていたご絵
① カルメルの修道女およびカルメルの修道士に囲まれている臨終の母テレサ
② テレサに冠を授けている聖母と幼きイエス
③ テレサの栞「何事も心を乱すことなく 何ごとも恐れることはない
すべては過ぎ去っていく 神のみ変わることがない
忍耐はすべてをかちとる 神を持つ者には
何ごとも欠けることがない 神のみで満たされる」
④ 「わたしたちの母イエスのテレサの連祷」(4つ折りの紙)。
以上のご絵は日に七度唱える聖務日祷「教会の祈り」にはさまれていたことを思うと、その都度これらのご絵の少なくとも何枚かはテレーズの目に入り、折々のテレーズの生活の出来事の中で反芻されていた言葉であったことでしょう。こうしてテレーズの心にマドレ・テレサは刻まれていったと思われます。
* 「絵の係り」としてした仕事
幼きイエスのテレーズが修道院で「絵の係り」であったときの仕事も忘れてはならないでしょう。1893年の9月以降テレーズはこの仕事にあったており、かなりな量の仕事をこなしていたということをわたしたちはあまり知りません。美術的にはさほど価値がなくても、その霊的意味は大きいといえるでしょう。そのいくつかをあげてみますと、
① 「一人の人の救霊のためにわたしは千の命も惜しみません」、この句はテレーズとテレサの関わりにとってとても重要(のちに触れる)。
② アビラのテレサの絵と「苦しみか死か」「主の慈しみをとこしえにうたう」の組み合わせ。
③ 聖堂の修復のために、おそらく1894年の夏の間に描かれたと思われるマドレ・テレサの生涯の4つのエピソードの絵に関しては、テレーズは単に修復しただけでした。修復のみと言っても沈黙のうちにその作業をしながら、テレーズのことですから母テレサに心を、想いをはせて仕事にあたっていたのではないでしょうか。
図像以外での幼きイエスのテレーズと母聖テレサ
1)ゴンザガのマリー院長 と アニェス院長を通して
当時のリジュー修道院共同体の教養の程度からするとメール・アニェスやゴンザガのメール・マリー以外が、母テレサと関わっていたことはなさそうだというギイ・ゴシェ師ocdの見解を紹介しておきます。
* ゴンザガのマリー院長は、1895年にメモで記しています。
わたしはわたしの娘(テレーズ)に傷をむしろ望みます…偉大なことでいっぱいの頭には錯覚があります…わたしたちを疲れさせるすべての信心について聞いたり、実行したりするより、わたしたちの聖なる母の単純さ、快活さのほうがよいのです。母テレサは愛することを知っていました、そして愛されることをも!彼女のカスタネットに万歳!(註:休憩時間にまじめな話をするよりはたびたびマドレは自分でもカスタネットを鳴らして踊ったというエピソードに基づいていると推測される)。
* ゴンザガのマリー院長は、また予言的とも言える言葉をメモに残しています。
イエスさまは苦しむためにわたしのすみれを「かりこみ」ました。今日わたしは予言者でありたいとは思いませんが(テレーズが苦しむことを予言したくはありませんが)、でもわたしの可愛い娘に言いたい、苦しみ、それ以上にいけにえ(としてささげるならば)はあなたを偉大な聖人とするでしょう。もしわたしたちが忠実ならば、わたしたちは母テレサのイエスを見ることでしょう(1889秋、ゴンザガのマリー院長からテレーズへ)。
2)聖テレサの著作
当時のカルメル会修道院にはP.Bouixによるアビラのテレサの著書3巻がありましたが、幼きイエスのテレーズに読む時間がはたしてあったのか疑わしい。また当時テレサ以外にも著者たちを選集、または注解でしか知ることがなかったということから、いずれにしても母テレサの教えに直接に触れ、深めることはなかった可能性が大きいとの見解をギ・ゴシェ師ocdは示しています。
カルメル会入会前か、遅くとも入会後、テレーズが聖テレサの伝記を読んだことは確かです。結婚した従姉ジャンヌ・ラ・ネールへの手紙に(1893年10月22日)、「わたしたちの聖なる母にジャンヌという名の姉妹がいました。彼女の伝記を読んでいて聖女がかわいらしい甥や姪たちをやさしく見守っていらしたかを知り、心を動かされました」。
そのジャンヌにあてた手紙の中で(テレーズの祝日10月15日のプレゼントとしてもらったジャムのお礼に)、「ジャムのツボは、わたしに対するお2人のこまやかな心遣いがどこまで行き届いているかを語ってくれました。母聖テレサは『いわし1匹で、あなたはわたしの心をとらえてしまいました』と愉快げに言われたほど、恩を忘れない心の持ち主でした。もし聖女がフランシスとジャンヌをご存知でしたら、いったいなんと言われたでしょうか。聖女は天国からあなた方を眺め祝福をお与えにならないことはないでしょう。・・・・マドレ・テレサの取次によってわたしも『おばちゃま』になれますよう聖女にお祈りしています。聖女がわたしの祈りを聞き入れ、愛するジャンヌの一家を、聖会に偉大な聖人、聖女を与える祝された一家にしてくださると確信しています。…どうぞお願いですから、あなたも聖テレサにお祈りになってください」。
このように母テレサに心惹かれるテレーズは人々を快活に、また心こまやかにマドレへと導いていく様子が手紙からにじみでてきます。
3)リジューのカルメル会修道院資料室より
テレーズはマドレ・テレサの伝記を読み、影響を受けたことに疑いはありませんが、テレーズ自身は何も書き残していません。テレーズはメモを取りませんでした。とてもよい記憶力の持ち主でしたので、いろいろの表現は様々な機会に自然とほとばしり出たということです。
テレーズについて驚くことは、彼女が全く予期しないところからの情報源(出典)をもっていることです。たとえばマドレ・テレサの言葉を聖テレサの日めくりカレンダー(リル市の聖オーグスタン社発行)から切りぬくとか。同じようなことを聖書に関してもしていました。
また、食堂での食事中の読書も忘れないようにしましょう。毎年10月4日の夕食中にはアビラのテレサの死について読まれました。枝の祝日の日曜日11時の食事にテレーズはマドレ・テレサの霊的婚姻の恵みについて聞いています。
4)典礼に関して
改革カルメル会では、当時聖テレサの4大祝日を祝っていました。
① 10月4日命日読書課の後には、「神の慈しみを永久に歌う」を対話形式で歌います。休憩時間が終わると片手にローソクを灯し、白いマントを着てテ・デウムを歌います。
② 10月15日は4日から8日目オクターブには、14:30分晩課の後共同体は聖なる母テレサにいくつかの歌をささげます。その後聖テレサの連祷を、夕方には「わたしは死なないために死ぬ」の祈りを唱えました。その日姉妹たちは聖なる母からの言葉として、一人ひとり一つ言葉を引く(くじ引きのように)習慣がありました。
③ 7月13日、聖女のご遺物移転の記念日には10月15日の聖務が唱えられ、
④ 8月28日は母イエスの聖テレサの刺し貫かれた心の祝日です。
⑤ 以上の祝日には説教がありました。それに加えて毎月修道院の庭にある聖テレサの隠遁所へ共同体は祈りながら行列しました。
6)保護聖人への祈り
毎年10月15日テレサの祝日にはテレーズは自分の保護の聖人にさまざまな意向について祈りました。そして保護聖人テレサの恵みへと人々を誘っているようです。そのいくつかをあげてみましょう。
* 1889年 10月15日 ゲラン夫人へ
「・・・叔母さま、今日は、叔母さまがわたしたちにしてくださるすべてのことを、100倍にしてお返しくださるよう聖テレサにたくさんお祈りいたしました!セリーヌからのお祝い日の便りに、叔母さまがお姉さまにしてくださるご親切のことが書いてありました。それを読んで、とても胸が熱くなりましたが驚きはしませんでした。なぜって、叔母さまがわたしたちに注いでくださる母のような細やかなお心遣いをよく知っているわたくしですもの。」と保護聖人テレサにたくさんの恵みをお返しとしてテレーズは願っていました。
* 1894年 10月11日 レオニーへ
「・・・お姉さまの祝日が今ではわたしの祝日と同じ日になったので(註:テレーズの3番目の姉は聖母訪問会での修道名をフランソワーズ・テレーズ)、とてもうれしいです。きっと聖テレサがお姉さまをお恵みでいっぱいにしてくださることでしょう。お姉さまのために、聖テレサにたくさんお祈りいたします。」
~ つづく ~