例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』
昨年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行ないました。
そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。
現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
マザーテレサとイエスのテレサ
このテレサの生き方をとてもシンプルにいいあらわしているのが、マザーテレサの言葉です。マザーの霊性が小さきテレーズの霊性であることは、近年良く知られるようになりました。ですが、マザーの人生は実はテレサの生き方により近いと言えます。休むことなく旅して、世界中に創立したマザーは、20世紀のテレサです。マザーはカルメルの霊性を愛し、カルカッタではカルメルの聖堂で祈り、カルメリット達に自分の死後も神の愛の宣教者会のシスターたちの霊的指導を願っていました。マザーは、小さきテレーズとテレサがどれほどに「教会のための使徒」であったかを教えてくれるのです。
「わたしたちは、多くのことを複雑にしてしまうのと同じように、祈りも複雑にしてしまいます。しかし、祈りとは、分かつことのできない愛−それは、あなたへの愛、わたしへの愛、そしてすべての人への愛−を注がれるキリストを愛することなのです。そして、たがいに切り離すことのできないこれらの愛は、イエスの言われた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」ということばにならうとき、実践へ移ってゆくのです。」 (マザー・テレサ『祈り』サン・パウロp.57)
「静かな絶望」を超えて
祈りは、シンプルなもの、それは、キリストを愛することにより、すべての人を愛することだ、というマザーの言葉を受け止めるなら、祈りと活動がいかにひとつの泉からうるおされなければならないものかが良くわかってきます。
実はわたしも若い時はいっぱしの社会正義派で、祈りを忘れて難民のためのボランティアに打ち込んでいました。タイの難民キャンプでボランティアをした後、日本にいる難民の方々のための様々なボランティアをしてきました。ただ、その中で次第に感じてきたのが、一種のむなしさでした。不正はいつまでたってもなくならず、自分のしているちっぽけなことが不毛に思え、心が乾ききって砂漠のようになってきたからです。いったいわたしのすることが何になる、何もかわらないじゃないか、といった思いが心に忍び込んできました。
人間的なレベルだけの活動は必ずこういう不毛感へとゆきついてしまうと自分の経験から思います。わたしたちの心をこの静かに忍び寄る絶望から守り、希望を持ち続け、愛することをあきらめないためには、イエスとのかかわりである祈りを忘れないことが、絶対に必要なのは明らかです。
すべてが過ぎ去ってゆくことを感じる時、唯一過ぎ去らない神に希望を置く信仰が必要です。テレサは、そのように人生の荒波をもがきながら旅している私たちの手を取り、導いてくれます。彼女の有名な詩は、嵐の中から弟子達に呼びかけたイエスのように、わたしたち一人一人が最も困難な時に「おそれるな」と呼びかけ、真の希望を与える人生の羅針盤となってくれることでしょう。
何事もあなたを乱すことなく 何事も恐れてはならない
すべては過ぎ去る。 神のみ変わらない
忍耐は全てをかち得る。 神を所有する者には
何も乏しいことがない。 神のみで足りる。
(おわり)