例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』
昨年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。
そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。
現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
祈りの難しさ
テレサが母であるのは、祈りの大切さと同時に祈りの難しさを骨の髄まで知っていた人であるからです。数多くの聖人の中でも、テレサほど祈りに苦労した人はいないといっても過言ではないと思います。苦労したからこそ、わたしたちの苦労がわかるのです。
具体的に祈りの難しさとその困難を乗り越える方法を教えてくれるという点では、テレサはぬきんでた人です。また人間を知り尽くした人として、人間の弱さ、誘惑を知っているという点でも、頼りになる人です。
『自叙伝』の11章には、祈りを学ぶための4つの段階を、庭に水をやる4つの方法に例えた描写があります。アヴィラという乾燥した気候の中で育ったテレサにとって、水の大切さと水やりというのは、生活上の切実な体験であったことでしょう。
庭に水をやる4つの方法(自叙伝11章)
テレサは、われわれの魂を庭にたとえます。祈りという水なしに、この庭から実りを期待することはできません。
祈りの第一段階は、祈りをはじめた人の出会う最も困難な時期で、テレサはこれを、水汲みの最も原始的な方法、つるべを井戸になげこみ、重い水を手で引き上げるというつらい労働にたとえます。祈るために努力と相当な忍耐が必要であることをテレサは隠さずに教えてくれるのです。
まず大切なのは、祈りはいつも自然に楽にできるものではないと知ることです。時々わたしたちはただぼウっとしている状態を祈りと勘違いしてしまいます。祈りはひとつのアートであり、すべてのアート:芸術やスポーツなどと同じく理論と実践に習熟することが必要なのです。そのためには、本を読んで知識を得ることや、なんと言ってもそのアートの専門家である良い先生が不可欠ですが、この分野でテレサの右に出ることのできる先生はいません。
雑念との戦い
祈り始めた誰もが最初にぶつかる壁は、雑念です。「私は祈りには全然向いていない、すぐに気が散ってしまうから!」とほとんどの人が根を上げるのはこのためです。テレサは、想像力が豊かで、生き生きとした知性の持ち主でしたから、誰よりも気の散るタイプの人間でした。ですから、祈る時に考えがあちらこちらへとさまよい歩くことの苦しみを本当に良く知っていました。自叙伝の中でも、何年もの間、祈る時間がくると、勇気をふりしぼって聖堂に向かわなくてはならず、祈りに潜心するよりも、早く祈りの時間が終わればいいという思いに心がとらわれていた、と告白しています。
あの小さきテレーズでさえ、その『自叙伝』の小鳥のたとえ(原稿B)の中で、やはり祈りの中で気が散るのが普通であったことを正直に語っています。祈りに全てを賭けて生きるプロともいえるカルメリットでさえ、祈りの時に気が散るのだということ、それが祈るための妨げには決してならないと知ることは、わたしたち普通のキリスト者にとって大きな励ましであると思います。
人間の心を良く知っていたテレサは、雑念がなぜ生ずるかについて説明してくれます。人間の意識はいつもたえまなく流れているため、天体の運行を止めることができないように、その考えを止めることはできない。だから、雑念があるというのは、人間である限り当然のことで、それを気にしたり嘆いてはならない。雑念がある時の最も良い方法とは、その意識をイエス・キリストの方へ向け直す事だと。
また、神がわたしたちの知性でも想像でも、決してとらえることの出来ない存在である以上、雑念は必然的に訪れてきます。焦点のさだまらないものを写そうとしたカメラが必ずピンぼけになるのと同じです。
(つづく)