例年、東京 上野毛にあるのカトリック上野毛教会聖堂で、四旬節中の日曜日に行われる
『カルメル会四旬節講話シリーズ』
昨年は【神との出会いを求める人々の母 聖テレジア – アビラの聖テレジアのテーマに沿って:2015年・生誕500年祭に向かって】をテーマに5週に渡り行わました。
そのうちの一つを、ノートルダム・ド・ヴィ会員の片山はるひが担当致しましたので、
その講話を9回に分けてご紹介しています。
現代人のための祈りの道:イエスの聖テレサと共に
片山はるひ(ノートルダム・ド・ヴィ)
祈りとは
テレサの体験した神の現存をこのように理解するとき、彼女による祈りの定義がぴんとくるようになります。
「祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と二人だけで、たびたび語り合う親しい友としての交わりにほかなりません。」(『自叙伝』8章5)
このシンプルな定義には、いくつかのポイントがあります。まず、神から愛されていることを知らなければならないということです。私たちが神にどのようなイメージを持っているのかはとても重要です。もし神が厳しく怖い人であれば、たびたび語り合いたいとは思いません。聖書を深く学び、聖人たちの教えにも耳を傾けて、神が愛そのものであることを信じることができなければ、祈りは、単なる形式や儀式となってしまうことでしょう。
次に祈りは、二人だけの親密さを要求するということです。たしかに、恋人どうしは、愛を語るために二人だけになれる時を探します。ミサなどの共同の祈りは教会のすばらしい宝ですが、それだけでは足りない、個人としての神とのコンタクトがどうしても必要であるということです。
そして、「親しい友としての交わり」とは、今風にいうとコンタクト、そして絆です。祈りは神との絆であり、この絆がなければ、他の人間との関係もはかないものとなるような絆であると思います。
絆とは関係です。生活の中でも気がつくことですが、関係のないものは、そこに「ある」ものでも、ある意味「ない」も同然です。たとえば、犬が好きな人にとっては、近所で出会う犬の色や大きさや性格までもがわかっているはずです。でも犬などどうでもいい人にとって、道で咲いている花には気づいても犬がいることにすら気づかないことも多いことでしょう。同じように、神がいてくだっても、私が関係をもとうとしない限り、その神はわたしにとっていないも同然の方です。祈りとは、まさにその関係です。ですから、祈りはキリスト者にとって呼吸と同じであると言われます。祈りがなければ、いのちである神とつながっていることはできない。つまりキリスト者として生きてゆくことができなくなるわけです。
(つづく)