何度かHP上でご紹介し、引用して参りました ノートルダム・ド・ヴィの創立者 幼きイエスのマリー・エウジェンヌ神父の著書『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』 の中から、第8章 テレサ的精神( Espirt thérèsien) の日本語訳を10回に渡って連載でお送りいたします。
『わたしは神をみたい(Je veux voir Dieu)』
p.116-126 第8章 テレサ的精神 (Espirt thérèsien )
主なる神は生きておられ、その御前に私は立つ。
私は情熱の全てをかけて、主に仕える。
霊的な人々の母(Mater spiritualium)である聖テレサは、「ついに霊魂の城へと入ることができた人々」、すなわち、内的生活に励もうとする人々にのみ、語りかける。
それゆえ「貴族的な霊性ではないか!」と言われることもあるが、それは本当だろうか? 聖テレサは、罪に溺れていきている人々には、全く関心がないのだろうか?罪に溺れている人々は、福音書の中のシロエの泉のほとりで30年間病気により体が麻痺し動けなくなった人のように描写されている。この人々は、衛兵達の守る城の城壁の外におり、城の中に入ろうと思わないどころか、そこにすばらしい城があることも、その城主が誰であるか、その住居がどのようなものであるかを知ろうとは思わないのである。
だが、このような批判が、テレサの魂も、また彼女の全ての著作を貫く精神をも良く知らないところからくることは明らかである。
聖テレサは、罪により、魂が死んでいるかのような状態に陥ったために、自分が導くことのできない人々を決して見捨てない。一見離れたところにいるように見えたとしても、テレサはその慈しみのまなざしを彼らの上に注いでやまない。そして霊的生活の頂点にたどり着いた時には、彼女の憐れみの念と愛は、あまりにも大きくその心では包みきれないほどとなる。人々の救いへの情熱が彼女の人生を変え、それが新たな精神として、彼女の霊性となってゆくのである。
このようなテレサ的精神を知らないなら、テレサの魂の豊かさをも知ることはできない。それは、彼女の霊性に、ダイナミックな方向性を与える息吹であるからだ。
初めての改革カルメルの修道院として、聖ヨゼフ修道院を創立した時、テレサは神との完全な一致という望みを満たすことしか考えてはいなかった。厳しい禁域の中で、神と親しく生きることのみを夢見ていたのだった。
だが、神のみへと全ての思いを向けることのできる環境において、神への愛に燃え立った聖女は神が特別なご計画を持っておられることに気づいていった。
つづく
日本語訳:片山はるひ
(ノートルダム・ド・ヴィ)