≪NDVアーカイブ≫ テレーズにおける観想的祈り(2)

2019年9月30日

今回は2010年10月1日に掲載しました 『テレーズにおける観想的祈り(2)』をご紹介します。

執筆者:伊従 信子(ノートルダム・ド・ヴィ会員)

 

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小さい鳥の祈り

「小さな鳥は、自分の目を奪うあの輝く太陽の方に飛んでいきたい・・、三位一体の神聖なかまどに舞い上がっていくあの兄弟たち、鷲のまねがしたくてたまりません・・・・・・ああ!けれど小烏にできることは、その小さな羽を少し上げるのがやっとで、飛んでいくなど小さな力の及ぶことではありません!」『自叙伝』260

念祷の目的はまさに、「三位一体の神聖なかまどに舞い上がる」こと。テレーズにとって実現不可能に思われます。しかし、テレーズは自分にできることはしてみました、ご絵を取り出して眺める、聖句を思い出す・・・・・・・とにかく念祷をはじめ、信仰を打ち立てようとする努力はしてみました・・・・・・しかし、舞い上がることはできません。どうみてもそれは小烏に及ぶことではなさそうです。どんなに努力してもまったくだめです。でも、この無力さ、自分には到底できないと言う感じは、実は、はじめからあったのです。

「では、小鳥はどうなるのでしょうか!これほど無力な自分をみて、もだえ死にするのでしょうか…いいえ!小烏はそれを悲しもうとさえしません。大胆にも任せきって、神聖な太陽を見つめ続けていたい。」

三位一体の神のうちに飛んでいきたい。そんな果てしない望みをもつ小鳥は、しかし、自分の無力さをよく承知しています、この矛盾に充ちた状態で、テレーズはどうするのでしょうか。「神聖な太陽を見つめ続けていたい」信仰をさらに深くして、太陽を見つめ続けるというのです。「風も雨も、何ものも、小鳥を恐れさせることはできません。」とテレーズは言い切ります。すなわち、どんな困難をものともしない覚悟があります。

「たとい黒い雲が愛の太陽を隠すことがあっても、小烏はそこから動きません。雲のかなたには太陽が変わらず輝いており、その輝きは片時も失われることがないと知っているからです。」『目叙伝』261

どんな困難があろうとも小鳥はその場を動かない。時間が無駄だから止めよう、他のことをしたほうがよい、何か仕事をしようとは思わない。ひたすらそこから離れず、そこに留まっていると言うのです。なぜでしょう? 黒い雲が太陽を隠すことがあっても、その向こうに太陽は変わらず輝いている、とテレーズは確信しているからです。

「もちろん、ときには鼠に打ちのめされ、自分を取り巻く黒い雲以外に何も存在しないかのように思えることもあります。」 『自叙伝』261

ここでいう嵐とは、信仰に対する誘惑のことです。すっぽり自分を取り巻く黒雲以外何も存在しないとしか考えられず、まったく信じられない。神は存在しない。もっともひどい唯物論者の反論がテレーズの心に湧いてきました…神なしにすべてを証明できるときが来るに違いない、科学はすべてへの答えをそのうちに見付けるに違いないと。こうした反論がテレーズの知性に挑戦しきていました。死の前十八ヶ月間病魔とともに信仰の試練に苦しんだテレーズ。その反応は、

「そのときこそ、このか弱く貧しい小さな者にとって、完全な喜びのときとなります。」    『自叙伝』261

何という矛盾でしょう。三つの形容詞に注意しましょう、「貧しい」、「小さな」、「か弱い」。これこそテレーズなのです。そして信仰の試繍、誘惑にもかかわらず、完全な喜び、自分の存在の深みにおいて平安をテレーズは体験しているのです。

「そこにただじっと留まって、信仰の目から隠れてしまった見えない光を見つめ続けることは大きな幸福なのです…1」

このような試練は、実際にテレーズの死まで十八ヵ月間続きました。そして9月30日テレーズが亡くなる日、いっそう激しくなり、テレーズは暗やみのなかにいました。死の数時間前、額には玉のような汗が光り、ペツドのなかで身閨えていました。周りに聖水をまいてほしいと願い、「臨終の人のために、どれほど祈らなければならないことでしょう」と言うテレーズは、恐らく絶望に近い状態を感じていたようです。確かにテレーズは愛の死を願っていた。「イエスの十字架の死ほどすばらしい愛の死はいまだかつてない。わたしはそのような愛の死を願っています。ですから死ぬときわたしがどんなに苦しんでも驚かないように」とテレーズは姉たちに言っていました。しかし、次姉アニェスはたまりかねて、病室を出て、修道院の回廊にあるイエスの聖心のご像の前で「どうぞ妹が絶望のうちにこの息絶えることがありませんように」と懇願したと後日証言しています。

「信仰に関する誘惑とも呼べる試練は、かたい信仰をもつ者も体験することがありうる、高い神秘体験とも両立しうる。テレーズはこのような試繍を体験した。信仰をさらに固める、深める試練であることをここで強調する必要があろう。それはまた非常に深い<生きた信仰>(注:信仰が深い愛で生き生きとしている)がもたらすあがないの苦しみであり、このような試繍は、他の入々に救いの道を歩む光をもたらす。」 マリー・エウジェンヌ師著 『私は神を見たい』

テレーズが体験したのは、まさにこのような試練でした。信仰の暗夜においてキリストとともに苦しみ、信仰を持たない人々のために光をもたらしました。こうしてテレーズは今も人々の回心のために働き続けているのです。

「イエスさま!あなたの小烏は小さく弱いものであることをどんなにうれしく思っていることでしょう。もし大きかったならば、どうなるのでしょう。あなたのみ前に出たり、あなたの目の前で居眠りしたりする勇気は決してもてないに違いありません。そうです。これも小鳥の一つの弱さですが、神聖な太陽を見つめようとしても、雲のために光の一筋さえ見ることができないときなど、小さな目は意志に反して閉じてしまい、小さな頭は小さな羽の下に隠れ、貧しい小さなものは愛する太陽を相変わらず見つめているつもりで眠ってしまいます。でも目が覚めたとき、小鳥は悲しみません。その小さい心は平和を失いません。再ぴ愛の務めを始めます。」  『自叙伝』262

何という堅忍の精神でしょう。信仰を維持するために、うまずたゆまず潜心するようにすることは大切です。決して自分の惨めさ、弱さを嘆き悲しみ、惨めな自分を見つめてしまわないで・・・・・・。

テレーズは観想修道院の祈りの時間中に(もちろん意志的にではなく)居眠りをしてしまうことがありました。十代半ばの若者にとって、決して十分とはいえない唾鵬時間、一息つくというような時間のない規則正しい修道生活でのこと、朝夕の二時間の沈黙の祈りの間、居眠りしてしまうことがあっても不思議はないでしょう。しかし、テレーズの三人の姉たちは「小鳥の話」を出版したくありませんでした。マリー・エウジェンヌ師は、「すでに列聖されているテレーズが念祷中居眠りしていたと言う事実は、むしろわたしたちを勇気付ける」 躊躇なく「小鳥の話」を公開するよう勧告しました。もちろん、念祷中の居眠りを奨励するのではありませんが、祈りに堅忍するために慰めとなるエピソードです。

「あなたが望まれる限り、あなたのはいつまでも力も翼もないものでいましょう。いつもあなたを見つめていましょう。」『自叙伝』264小鳥

いつまでも・・・ 一生でも、力も翼もない弱いもの、飛ぶことができな(神へと飛び立てない、念祷ができない)でおりましょうとテレーズは言います。大切なのは「あなたが望まれる限り」。自分が勝手にこれでよいとの限定をつけるのでなく。また「いつもあなたを見つめていましょう」 この観想的まなざしが大切です。「小鳥は神の聖なるまなざしに魅せられていたい」のです。

イエスがまず小鳥に目をかけられました。テレーズにとって祈りとは愛の交換ではありますが、まなざしの交換なのです。初聖体のとき「もうずっと前から、イエスさまと貧しく小さなテレーズは、互いに見つめあい、理解しあっていました・・・・・・しかし、この日はもう見つめ合いではなく、一つに溶け合ったのでした。」『自叙伝』109。まなざしの交換、単純なまなざしの念祷です。

「小鳥はあなたの聖なるまなざしに魅せられ、あなたの愛の餌食となりたいと思っています。最愛の鷲よ、いつの日か必ず、あなたは小鳥を迎えい来られ、一緒に愛のかまどに連れていってくださるでしょう。 そして小鳥がいけにえとして身をささげたこの燃える愛の淵に、小鳥を永遠に沈めてくださるでしょう。私はそう希望しています。」『自叙伝』264

テレーズはこうして神的愛の内に沈み、二つの深淵の出会いとなります。神の愛の深淵 -

「あなたの愛は、幼いときから私に先んじて私を包み、私とともに大きくなりました。今ではその深さを極めることのできないほどの淵となりました」『自叙伝』336

このようにテレーズが述べる神の愛は、どのように深まっていったのでしょう。それは無味乾燥の祈り、観想的祈り、暗夜において「鷲の目と心」で神を見つめることによってでした。望むべき何ものもない、見えないものをみるかのように見据えていたテレーズの信仰と希望。私たちの希望もそのようでなければなりません。「体を住みかとしているかぎり主から遠く離れていても」(Ⅱコリ5・6)、浄化、試練、無味乾燥を受け入れていきましょう。観想とはわたしたちを養ってくれる無味乾燥です。自分の弱さを受け入れましょう。

「イエスを愛し、愛のいけにえ となるには、すべてを焼き尽くして変化させるこの愛の働きを受けるには、弱ければ弱いほど、そして、何も望みも徳もなければないほど、よいのです。」 『手紙』1986年9月17日

わたしたちの愛の度合いは異なりますが、誰もが「わたしは弱く、小さい、何もすることができない・・・」と言えます。それでしたらテレーズに願いましょう、自分の弱さを受け入れ、自分に頼ることなく、神にのみ支えられ、信仰と希望を神にのみ置くように。

*参考  『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝 その三つの原稿』(改訂版)
東京女子跣足カルメル会訳 伊従信子改訳 ドン・ボスコ社 1996年

終わり
伊従信子