
十字架の聖ヨハネの教えには、表面には必ずしも現れない神に到る渇き、突き上げるような望みがあります。
通常この点は強調されていませんが、とても大切です。それは丁度エンジンであり、神の息吹なのです。
神へ向かいたい、どんなことがあっても、何にも妨げられないで、神に到達したいと望む人のうちにある神の息吹なのです。これはすべてを超えてゆく動き、すべてを通り越して神へと向かう動きなのです。
ここに十字架の聖ヨハネの教えの特徴があります。
愛は人から期待するより、愛のないところに 愛を蒔きなさい。 そうすれば、たとえ時間がかかっても愛を刈り取るでしょう。 十字架の聖ヨハネ
「そうです、善を自分の回りに蒔かなければなりません。でも芽がでるかどうか心配することなく」
リジューの聖テレーズ
「何も恐れることはない」アヴィラの聖テレサ
でも、口で言うほどやさしいことではありません。
愛せない、愛を蒔くことができないと嘆くとき、神に慈しみの愛を真剣に求めるなら、
必ずや父である神は聞き入れ入れられるでしょう。それゆえにこそ、キリストを遣わされたのですから。
日々思いがけない出来事、自然界、社会情勢、他人の反応・批判、自分の過ち・失敗などに、日々心は振り子のように揺れうごきます。
でもどんなに心を乱されても、深奥におられる神へと向かおうとするなら…
伊従 信子(ノートル・ダム・ヴィ)
①「福者マリー=ユジェーヌ神父に導かれて十字架の聖ヨハネのひかりの道を行く」
伊従編・訳、聖母文庫、聖母の騎士社
















